日本国土の発生の源?竹生島

2011年11月10日

日本列島の形を見て
タツノオトシゴの形に似ているなぁ〜と思います。
皆さんどう思われます?

もっとかっこ良く日本龍体説とか、龍国とか
表現する人もいますね。

けど、わたしは率直な感想はタツノオトシゴですね。

<日本=タツノオトシゴ>

<日本=タツノオトシゴ>

いかがでしょうか…

<タツノオトシゴ>

<タツノオトシゴ>

それから、少し地図をズームアップして
近畿地方を見てみると…

<近畿地方 中北部>

<近畿地方 中北部>

この辺り、近畿地方=タツノオトシゴの腹部の辺りになるわけですが
なぜか、この辺りの地形を外形でなく断面図として見てしまう人も
少なくないようです。

つまり、琵琶湖を子宮に見立て
瀬田川から淀川につながる川筋を産道に見立てるわけです。
さしずめ琵琶湖の中の竹生島は卵子、受精卵でしょうか。
(上の地図で星印の所が竹生島)

で、産道を通って生まれたのは淡路島?
こんな連想をしていくのは難しくないように思います。
(え、しないって?)

でもこんな想像ができるのは、
日本の地形を俯瞰的に眺めることができるからで、
地図的な知識が無かった昔の人は
想像できなかったじゃないかなぁ〜とも思いますね。

ところが、
古事記の中でイザナギとイザナミが結婚をして
産んだ最初の子は淡路島だったとあるんですね。

<天瓊を以て滄海を探るの図>

<天瓊を以て滄海を探るの図>

そんなのこじつけじゃないか、と
思う人もいるかもしれませんが、そこは妄想ですから(笑)

でも単なる妄想ではなくて、古事記編纂を命じた
天武天皇の兄、天智天皇は近江に京を置きましたし
河川を使って河内方面への移動もあったでしょう。

正確な地理的な知識がなくても、古代の人も
そんなイマジネーションを持っていたとするのは
無理な想像ではないように思います。

いや、古代でも相当な距離を移動しつつ
地理的な情報を正確に把握していたのかもしれませんね。
恐るべし古代人。

この話、古代妄想があっちこっちに飛ぶんですが(笑)
そこをこらえて、妄想を竹生島に絞って話を進めると
竹生島ってとんでもなく象徴的な意味が持たされてないかい?って
思うのです。

受精卵ですからね。国が発生している元なんですからね。
とんでもないパワースポットじゃないですか。

<尾上から見る竹生島>

<尾上から見る竹生島>

その島にも神さんがおられます。
浅井姫命(あざいひめのみこと)という名の神さんです。

今週末出掛けてきます。

<内部リンク>
鮒寿司と人々が求めている事との接点

podcast 88 日曜日に琵琶湖岸を走って思った事

2011年11月6日

(↓黄緑色の三角をクリックすると音声が流れます)

私の鮒寿司関連ムービー

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鮒寿司と朝廷

2011年10月28日

JR米原駅を西へ2kmほど走ると
道は行き止まりのT字路で
正面は琵琶湖が広がっています。

湖岸道路は左右どちらに曲がっても、
琵琶湖の眺めの良い一本道が続きます。

そんな琵琶湖に見惚れながら、普段は何気なく
通過してしまうようなエリアなんですが、
ここは鮒寿司を語る上で、ちょっと重要で
面白いポイントでもあります。


より大きな地図で 鮒寿司の壁 坂田郡五座 を表示

少し俯瞰的にこの地域を見てみましょう。
湖岸にエクシブ琵琶湖というとても目立つ
リゾートホテルがありますが、その北隣には
筑摩神社という古い神社が有ります。

古い神社ですが、『延喜式神名帳』の記載はありません。
延喜式とは平安中期(900年代)に編纂された格式を
表したものです。

近江国は古くから神社の多くあった地域で、
延喜式にもたくさんの神社が記されていますが、
この辺りの旧坂田郡の地域内は何故か
延喜式に掲載された神社は少ないです。

私はこの地域の豪族であった息長氏と関係があるのでは?と
思っていますが、その話はまた改めて。

<筑摩神社>

<筑摩神社>

さて、この筑摩神社、
古代から皇室に鮒寿司などの食糧を貢納していた
筑摩御厨(みくりや)が置かれいた地域として
記録に残されているそうなんですね。

その起源は天智天皇の時代にさかのぼるといわれています。
天智天皇といえば皇子の時代に大化の改新をなし、
近江に京をおいた天皇です。1,300年程前の話ですね。

そんな昔からの伝説と記録、それらが実在した証として
地名や神社が今でも多く残っています。
しかもそれらが人々の生活と共に残っているのが
滋賀の魅力でもあります。

鮒寿司も、現在は数は減ったかもしれませんが
人々の生活と共にあり、鮒寿司から見えてくる
歴史もあるではないかと思います。

<朝妻湊跡から筑摩方面>

<朝妻湊跡から筑摩方面>

筑摩御厨からの供物は少し北に位置する朝妻の湊から
船に積まれて都へと向かったのでしょう。
この朝妻の湊は天野川河口に位置しますが、
天野川を遡っていくと息長氏の本拠地とされた
地域へとつながっています。

歴史の表舞台にはあまり出てこない息長氏
どんな人々だったのでしょうね?
鮒寿司とも関係があるのでしょうかね?

<万葉歌と息長氏>

<万葉歌と息長氏>

<外部リンク>
歴史地名ジャーナル

状況を察した方、コメントなど頂けるとうれしなぁ〜