鮒寿司と朝廷
2011年10月28日
JR米原駅を西へ2kmほど走ると
道は行き止まりのT字路で
正面は琵琶湖が広がっています。
湖岸道路は左右どちらに曲がっても、
琵琶湖の眺めの良い一本道が続きます。
そんな琵琶湖に見惚れながら、普段は何気なく
通過してしまうようなエリアなんですが、
ここは鮒寿司を語る上で、ちょっと重要で
面白いポイントでもあります。
より大きな地図で 鮒寿司の壁 坂田郡五座 を表示
少し俯瞰的にこの地域を見てみましょう。
湖岸にエクシブ琵琶湖というとても目立つ
リゾートホテルがありますが、その北隣には
筑摩神社という古い神社が有ります。
古い神社ですが、『延喜式神名帳』の記載はありません。
延喜式とは平安中期(900年代)に編纂された格式を
表したものです。
近江国は古くから神社の多くあった地域で、
延喜式にもたくさんの神社が記されていますが、
この辺りの旧坂田郡の地域内は何故か
延喜式に掲載された神社は少ないです。
私はこの地域の豪族であった息長氏と関係があるのでは?と
思っていますが、その話はまた改めて。
さて、この筑摩神社、
古代から皇室に鮒寿司などの食糧を貢納していた
筑摩御厨(みくりや)が置かれいた地域として
記録に残されているそうなんですね。
その起源は天智天皇の時代にさかのぼるといわれています。
天智天皇といえば皇子の時代に大化の改新をなし、
近江に京をおいた天皇です。1,300年程前の話ですね。
そんな昔からの伝説と記録、それらが実在した証として
地名や神社が今でも多く残っています。
しかもそれらが人々の生活と共に残っているのが
滋賀の魅力でもあります。
鮒寿司も、現在は数は減ったかもしれませんが
人々の生活と共にあり、鮒寿司から見えてくる
歴史もあるではないかと思います。
筑摩御厨からの供物は少し北に位置する朝妻の湊から
船に積まれて都へと向かったのでしょう。
この朝妻の湊は天野川河口に位置しますが、
天野川を遡っていくと息長氏の本拠地とされた
地域へとつながっています。
歴史の表舞台にはあまり出てこない息長氏。
どんな人々だったのでしょうね?
鮒寿司とも関係があるのでしょうかね?
<外部リンク>
歴史地名ジャーナル