podcast 29 大陸との交流で起こった伊香郡、それ以前に南方から稲作が伝わった浅井郡という妄想

2010年3月29日

(↓黄緑色の三角をクリックすると音声が流れます)

今回は余呉湖を軸に滋賀県という地域の話と、
それに絡めた鮒寿司の話をしてみたいと思います。

前回お話しました海津のまちは、
敦賀から琵琶湖の西回りのルートを通って
都へ通じる道筋に位置します。

今回お話ししたい余呉湖は琵琶湖の北端少し東寄りに
位置する周囲約6キロの小さな湖です。
敦賀から都へ向かう琵琶湖東岸ルートの沿線に位置します。


より大きな地図で 鮒寿司の壁マップ を表示
古代からこのルートは国内ルートというより
海外と都とを結ぶ大動脈の一つでした。
海外とは中国、東南アジア、朝鮮半島ですね。

余呉は與胡とも書くそうです。養老七年(723年)に
記された「帝王編年紀」に記述が有るようですね。
このという字は漢民族が、中国の北部や西部の異民族
とくに遊牧民族を卑しんで呼んだ言葉だそうです。

司馬遼太郎が「街道をゆく」のなかで
北国街道について書いた話の中に、
余呉湖について書いていたのを思い出し、
実際に渡来人がこの地に居た痕跡を見てみたくなりました。

街道をゆく (4) (朝日文芸文庫)

行きたかった場所は樹木が多い茂った中に
新羅神社という石碑だけが建っているらしい、、、
余呉湖畔にあるらしい、、、、、とされる場所でした。

大陸との交流の痕跡を探す時に、
ダイレクトに新羅ですから大変わかり易い記号ですが、
本当にそんな分り易い記号が残っているのか?
興味があったのですね。

古代大陸から渡来人が日本海を渡って敦賀に入り
滋賀を経由して都へと入っていきました。
特に当時の政治的な事情で渡ってきた朝鮮半島からの
渡来人は、色んな技術や大陸文化を広めていきましたね。

滋賀県には他にも朝鮮半島由来の痕跡として
湖東三山一つとして有名な百済寺や、
また滋賀の別名近江にかかる枕詞は「さざなみ」ですが
これは万葉仮名では楽浪と書き、
漢の時代にあった朝鮮半島の楽浪郡の字を当てる
という事ですから、これも半島の痕跡ですね。

このようなメジャーなものから、
渡来人の氏族の名前由来とする地名なども幾つかありますが、
私は、今まで余呉湖についてそのようなは意識はあまりしていませんでした。

現地に到着してまず、
余呉湖湖畔のはごろも市という地場特産品の直売所で
新羅神社の所在を尋ねましたが、地元の人ではないらしく
しかも観光スポットでもないようで、すぐには分りませんでした。

地図をみながら多分そうだろうという場所を教えてもらい、
その場所へ向かいました。

はごろも市からは対岸の余呉湖の西側の
少し湖にせり出した岬と呼ばれる所に
白木の森とも新羅崎の森とも呼ばれる一帯がありました。

湖岸道沿いに新羅崎神社跡という小さい案内看板が立ってあり、
そこから山道を少し登っていくと、杉林の中にヒッソリと
新羅神社舊跡(きゅうせき)」という石碑が建ってありました。

<新羅神社旧跡>
<新羅神社旧跡>

たったそれだけのものですが、存在感が有りましたね。
里山といえども人気の全くない静まり返った森の中に、
その石碑はただ沈黙して建っていました。

その石碑の表には新羅の文字がはっきりと書かれていました。
名が残るというのはこれほどまでに存在感が有るのか?と
しばらくその感慨に浸っていました。

また、家に帰って「街道をゆく」を読み返しましたが
余呉湖には羽衣伝説があって、先ほどもお話ししました
「帝王編年紀」に記された古い説話です。

地元の男の伊香刀美という、
この地域の伊香郡の始祖とされる人物と
白鳥の姿をした天女の話ですが、
司馬遼太郎はこの天女は渡来人の娘では
なかったかと書いています。

<羽衣伝説の看板>
<羽衣伝説の看板>

そして彼は同じく余呉湖近くにある乎彌神社(こやorおみ?)には
白鳥三羽を図案化した定紋(じょうもん)を見て、
この地の羽衣伝説、新羅の関連性を述べています。

<乎彌神社の賽銭箱の定紋>
<乎彌神社の賽銭箱の定紋>

渡来人が日本にやってきたルートは
瀬戸内海経由と共に、敦賀、滋賀を経由して
都に向かった人も多かったようです。

敦賀は朝鮮半島からは距離がありますが、
海流に乗ると瀬戸内海航路より早く着ける
という事だったようですね。

当時、未だ文化水準の低かった滋賀県人のデータが
渡来人によって相当量、易々と
大陸文化に上書きされてしまった結果が
この痕跡の多さに繋がっているのではなかろうか?
などと思っていますが、これは私の妄想です。

で、ここからがもう一歩踏み込んだ妄想なのですが
先週の休日に図書館に出かけ読んでいました本に
東浅井郡志」という本が有ります。

<図書館にて>
<図書館にて>

黒田惟信(これのぶ)という方が12年間にわたって
編纂されて、昭和二年に発行された郷土史です。
この方も「浅井郡」の浅井の由来について
いろいろと調査されています。

その中で興味深かったのは、
浅井郡が東西に分割されている理由の仮説として
「浅井」の地先に「伊香」という地先が新しく起きた
という説をあげています。

伊香の地名は伊香津臣命(いかつおみのみこと)が
この地を開発した始祖と言われていて、
羽衣伝説で言われている伊香刀美(いかとみ)との
関係も指摘されていますが、まあ同一人物でいいのでしょう。

この伊香津臣命の出現と、その他の記録などと相対的関係において
伊香郡の成立年代がおおよそつかめるとしています。

そして伊香郡の始祖が出現したのは
神武から仲哀天皇の時期ではないかとしています。
おおよそ2世紀〜4世紀の頃ということですね。
既に大陸と交流のあった時代です

それより以前に浅井という地名があったとするなら、
大陸からの文化が混じる前の先住民によって名付けられた可能は?と
「東浅井郡志」は仮説を進めています。

石器、土器、銅鐸などの考古学的な遺物からの調査は
まだまだ判断が難しとし、別の方法として言語学的な考察をしています。

縄文人、弥生人、大陸人、インドシナ人などに
分けながら考察を進めます。

アイヌ語からは類似する言葉は見当たらなかったとし、
大陸のウラルアルタイ語族については不学なので
後の人の発見を待ちたいとしています。

最後に南方系の言語については坪井九馬三(くめぞう)博士が
タイ語やカンボジア語から九州四国紀伊大和の古い地名を
説明した事をあげ、彼の門下生の関本五城という人を通じて、
アサイはアシ、アエが転訛したものという説を紹介しています。

ビルマ、タイ、マレーシアではアシは稲の意味で、
アシ、アヒは稲を植える。アシ、アエは青い稲、青田の意味で、
アサイ、アザイが稲田に適した所だったのではないだろうか?
と記しています。

さて、この「東浅井郡志」の推論の最後に
もう一つ私の妄想を付け加えたいと思います。

<アシ・アエ(青い稲、青田)ーアザイの地先に伊香が起こる>
<アシ・アエ(青い稲、青田)ーアザイの地先に伊香が起こる>

鮒寿司の漬け方は日本海経由の技術ではなく、
瀬戸内海経由の技だそうです」と
湖里庵の女将さんは話しておられました。

日本海側のナレズシには野菜を使いますが
鮒寿司は使わないことから
技術の伝播経路が違うらしいのですね。

鮒寿司は米とは切っても切れない食品ですから
南方から稲作の伝播と共にナレズシ技術が伝わり、
アシ・アエ(アザイ)という稲田に適した場所で、しかも
淡水魚の豊富な琵琶湖に面したこの場所で
鮒寿司が生まれたと想像するのは、無理な事ではないと思います。
(同時多発的に他の場所でも鮒寿司は生まれたでしょうけど (^_^;) )

そして、稲作に適し豊かな漁場でもあった浅井という地域名
北方大陸系の優れた技術や文化によって上書きされる事なく、
現代まで残ったのではないか!と一人楽しく妄想しているのです。

(残念ながら浅井の名の付いた自治体名は
つい先頃に消滅してしまいまいたが)

ということで今回は引き続き、
ローカルな地域ネタを妄想いっぱいに話してみました。

歴史については不勉強な事がたくさんあって
突っ込みどころ満載だと思いますが
妄想という事で勘弁していただきたいと思います。

最後に、余呉湖を一周した動画を掲載します。

 

<内部リンク>

podcast 28 浅井比売命が住まう神懸かった島に効果的に出会う道筋

Comments (2)

山崎 修之亮9月 4th, 2014 at 8:50 午前

こんにちは。初めまして71歳の東京在住の男子です。曽祖父が東浅井郡浅井町(昔は大字下草野村?)
出身です。新羅崎神社や渡来人の経路を興味深く拝見いたしました。渡来人はやはり先進国の人だった
んですね。初めてこのような有意義な記事に接し、大変嬉しく存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
お鮨がおいしそうですね。食べたくなりました。では、この辺で失礼いたします。

山崎 修之亮9月 10th, 2014 at 4:11 午後

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