妄想終結 時間を超えた湖と陸の恵み〜鮒寿司

2010年5月20日

<浅井が湖と陸(港と竹生島の見える陸)からなる地域とする妄想図>

<浅井が湖と陸(港と竹生島の見える陸)からなる地域とする妄想図>

浅井=鮒寿司の妄想 「浅井」探し、取りあえずの終結 その2

からの続きです。

タイの大学で農耕儀礼について研究されている方に
浅井という言葉の起源が東南アジアからという一説を
軽く否定されましたが、農耕と結びついて精神性や宗教観は
太い結びつきがある様ですね。これは発酵文化の伝播にも重なります。

以前に読んだ本で
聞き書・ふるさとの家庭料理〈1〉すし・なれずし
なれずし→生なれ→浅なれ→早ずし→にぎり→生ずし→回転寿しの系統と
別に日本海側(北海道〜鳥取)で作られている、「いずし」の系統と
いうのが説明されています。日本海側の北海道から鳥取の広い範囲に
分布しており、朝鮮半島の影響を受けているのでは?と書かれてあります。

この話は湖里庵の女将さんも話しておられ
ナレズシ文化は滋賀県の北部で南方系と朝鮮系とが
ぶつかり合っているではないかなぁとも思いますね。

そのぶつかり合っている地域が伊香郡と浅井郡とで
伊香郡が北方系、浅井郡は少し古い南方系としてみます。

中国南部また東南アジアの人々が湖と湿地の広がる古代の浅井郡を見て
故郷に似たような場所と思ったかどうかは分りませんが、
南方系である浅井郡の統治者が後発の北方系統治者に駆逐されて
しまったと考えると、何も残っていないのも頷けるなぁと思います。

伊吹山の背比べの昔話があります。
浅井の山(金糞岳か他の山か不明)と背比べをした伊吹山が
一夜にして浅井側の山が伸びたので腹を立ててその首を切ってしまうと、
その首は転がって琵琶湖に落ち竹生島になったというような話です。

これなんかは北方系の坂田の豪族と南方系の浅井の豪族の
抗争の結末を暗喩しているように思います。

律令制の制定された当時にこの地域が、どのような勢力図だったか
よくわかりません。しかし浅井の豪族が敗退した直後の、
まだ精神的影響力のある時期だったのかなと思います。
だから郡として残り、そして竹生島には淺井姫命
祀られたのではないかと。

この浅井郡を統治していた旧豪族は水陸両方(どちらかと言えば水?)に
長けていて、それが竹生島を中心とする領域だったと考えると
上の地図の様に西浅井郡のと山本山以南の竹生島が見える穀倉地
なる訳です。

しかし、そうすうると浅井郡でない湖面に面した地域が3つ出てきます。
(阿曽津千件とか水没伝説はこの場合ちょっと横に置いておいて)
賤ヶ岳付近の飯浦山梨子、そして山本山付近の片山です。

もしかしたら、これら三つの村はその昔は浅井郡内にあったとなると
より一層浅井郡の水陸両用地域の性格が際立つなぁとと思い
滋賀県の地名辞典で調べてみました。が、江戸時代の文献には
伊香郡の飯浦・山梨子との記述を確認できるだけでした。

それから、延喜式神名帳という延長5年(927年)にまとめられた
全国の神社リストを見てみました。そうすうると山本山麓の片山は
現在は伊香郡内に入っていますが、その地にある片山神社は900年代には
浅井郡内の神社
として規定されていた事が分かりました。

より大きな地図で 鮒寿司の壁 浅井郡十四座 を表示

ホォと興奮する瞬間です。

では、飯浦・山梨子はどうか?
残念ながら飯浦の波彌神社(八幡神社に合祀 )は伊香郡内の神社として
規定されていました。ただ、どのような経緯で八幡神社に合祀 されたかは
不明で、もし波彌神社が元々は山の東側にあったのあれば
飯浦が旧浅井郡域だったとの可能性も0%ではありません。

より大きな地図で 鮒寿司の壁 伊香郡四十六座 を表示

が、これ以上は神さんの知識をもっと増やさないと
全くチンプンカンプンな世界なので、一旦この話は
休止しようと思います。

鮒寿司が湖の幸陸の幸とを時間(発酵)をかける事で
作られる食品で、しかも南方から伝わった製造方法でるといわれる事と、
浅井郡が湖と陸の両方を意識的に領有する地域だったとすることが
同じ性質として考えられると、浅井そのものの象徴が鮒寿司ではないか?
と閃いたもので、それを説得力あるものにしていこうと思い
今まで書いてきましたが、難しいですね。

それ以降は、ファンタジーで書いていくしかないですね〜

<内部リンク>
podcast 27 湖里庵で女将さんに伺った話 海津の桜、遠藤周作と竹生島
浅井=鮒寿司の妄想 「浅井」探し、取りあえずの終結 その2
podcast 29 大陸との交流で起こった伊香郡、それ以前に南方から稲作が伝わった浅井郡という妄想
なれずし〜回転ずしへ」以外にもある日本のすしの系統

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