鮒寿司の5要素の「塩」から、滋賀の地理について思いを広げる

2010年3月20日

以前から何度か海津方面は出かけた事がありますが
改めて色々調べてみたくなりました。

琵琶湖岸に面した集落の地名で水に因んだ名前として
〜津、〜浦、〜浜などがありますが、県北部で言いますと
津、海津、大浦、菅浦、飯浦がありますね。

漢字の意味から説明するなら

(1)海岸・河岸の船舶が来着する所。船つき場。渡し場。港。
(2)特に、船つき場や渡し場に対して、物資が集散し、集落が形成された所。港町。
というような意味が説明されています。

(1)海などの、比較的小さな湾入部。入り江。
(2)海岸。湖岸。浜辺。
(3)海岸沿いの、半農半漁の村。
というような説明がされています。
引用『goo辞書』

<近江の交通、物流路について>
<近江の交通、物流路について>

実際に海津、塩津というのは近世まで
日本海側の都市と奈良、京都の都を結ぶ大動脈の
重要なポイントでした。

琵琶湖の東側を南北に横断する北国街道
そして西側は北国海道または西近江路と言われ
陸路も繋がっていましたが、海津・塩津から
船による水上路を使った運搬も盛んだったようです。

江戸時代中期(享保年間1716~1735年)には幕府、彦根藩の資料から
約3.700艘の船が琵琶湖に浮んでいた事がわかるそうです。
その内物資輸送に携わった丸子船は約1,360艘だったようです。

1693年(元禄6年)の「江州湖水諸浦丸船名寄帳」に記載されている
100石積み以上の丸子船を所有していた港のランキングでは
塩津 87
海津 85
大津 85
今津 73
と続いています。

海津、塩津の規模の大きさがよくわかります。
陸路と水路の中継点として
重要な地域だったのでしょうね。

と同時に、大量の物資が滋賀県を経由して
南北間を往来していたのが想像できます。

湖里庵の女将さんが話していた海津の地は
琵琶湖の東側の地域より、越前・加賀方面との
交流の方が大きかったという話も頷けます。

加賀藩は海津とその周辺に飛び地を配して、
海津屋敷(いわゆる屋敷蔵)を設けていたそうです。

しかし、1639年(寛永16年)加賀藩が西回り航路
(対馬海流に逆行して下関、瀬戸内海経由で大坂へ向かう航路)
を開拓したりなどして、交通の流れも徐々に
変わっていったようです。


また、『近江の峠』などを読んでいると、
海津から敦賀に向かう途中の愛発(あらち)峠付近の村が
荷物の中継地として賑わい、享保年間に46戸あった家が
1970年代には 鉄道の北陸線開通などで、廃村間近の1戸になっている
状態を記述しています。

交通、物流の流れは時と共に変わっていきますね。
これから先はどのように流れていくのでしょうか?

鮒寿司の5要素(ニゴロブナ、米、水、塩、気候風土)の
と海津について思いを巡らしましたが、
こんな結果になってしまいました。

このての交通・物流ネタ、もう少し続きます。

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