西洋科学(国際標準)が私と世界とを遠ざけてしまった?
2011年4月30日
以前にも増して地元地域をウロウロとする事が増えてきました。
地元滋賀は知れば知る程、触れれば触れる程魅力が深まって面白いです。
<高木浜から海津大崎、竹生島を望む>
滋賀には縄文時代から現代まで生で触れられる歴史の現場があります。
本やテレビなどから得られる知識だけでなく、
歴史の中の人物が立っていたであろう、その場所に立つ事で
自分の身体を通して感じることが出来る醍醐味があります。
そうした空間で過去から脈々と続けられてきた人間の営みを
想像する事が私は好きなのですねぇ〜。
そんな趣味?の中で、あまり身近でない昔の表記や単位なども
目にする事も多くなります。最初は慣れないのでピンと来ません。
しかし、わかってくると理にかなっているというか
より世界が身近になるなぁと思うのですね。
以前にも書いた事がありますが「石(こく)」という単位、これは体積を表します。
鮒寿司が何千年と受け継がれてきた背景に、この地域のがお米の豊かな
地域であった事を近江の米の石高からも想像したりする訳です。
1石=10斗
10斗=100升
100升=1,000合
1合は約180mlですが、それはここでは重要ではありません。
1合は1食で食べるお米の量としての基準として理解してみましょう。
日々ご飯を炊くお母さんや奥さん(女性だけではありませんけども)
それから一人暮らしの経験がある方なら1合の米を炊飯したら
ドンブリ茶碗山盛り程度のご飯が炊ける事は知っていると思います。
茶碗の約2杯強ですね。
現代人は平均してそこまでの量を一回の食事では食べないようですが
極端にかけ離れた量ではありません。それに、今よりも
食材が豊かではなかった昔の暮らしでは米の消費量は多かったので、
より感覚的にも近い単位と言えると思います。
そんな身体的に分かり易い1合を起点に話を進めていきます。
1合=1回の食事で食べる米の量として、1石=1,000合ですから
1日3食で333日分の米の量となります。1年(365日)分には少し足りません。
けれども、米1石は1人の人間が1年分の食べる量として
とても理解し易いと思いますね。それから基本的に米は1年に1度収穫しますから
命をつないでいく身体的な感覚として、石は理解し易い単位だと思います。
そのような理解の仕方から考えると
江戸初期の近江の石高は約80万石あったそうですから
単純に80万人分の1年分のご飯が確保できていたと把握して
良いと思います。
江戸初期の日本の総人口は今の1/3〜1/4と言われていますから
近江の人口はどの程度だったのでしょうか?一説には
1600年頃に72万人という資料があります。
その事からも近江は充分飯が食えた豊かな地域であったと
想像できます。そんな事も以前書きました。
<西山八幡神社 豊公薩摩大杉>
さて、この度の東北地方の震災後の津波による
農地の被害は23,600ヘクタールと推計されています。
でもこの面積ピンと来ませんね。
普段こういった数値を事務的に処理している役所の方や
農業に関連した仕事をされている方は感覚的に分かるかもしれません。
けれど、一般人にはどう受け止めて良いのか分かりません。
「私とその数字がどう関係しているのか?」
その数値が身体的な感覚として分かりにくいということです。
身体的に受け止められるように、例えばこの面積が全て田んぼで
お米が取れたと仮定して、ちょっと計算してみることにします。
ざくっとした計算ですので、その辺はご容赦ください。
<田んぼと伊吹山>
===ここから先、計算の過程が面倒な人は読み飛ばして下さい===
平成22年度の農水省の資料では水陸稲の収穫量は
10aあたり522kgとなっています。つまり1haで5.22tです。
先に書いた東北の津波による耕作地被害面積23,600haに
当てはめると推定収穫量は123,192tになります。
でも、約12万トンって言われてもピンと来ないですよね。
では、更にこれを石にまで変換してみましょう。
米1合は約150gとありますから1石はその千倍、
150,000g、つまり0.15tになります。
12万トンを1石(0.15t)で割ると80万石
============== 計算終わり ==============
つまり、東北の津波で被害にあった耕作地は、
それが全てが田んぼであったと仮定すると
80万人分のお米が取れる程度の面積だったと
表現する事が出来ると思います。
<虎御前、山本山、葛篭尾崎、東山、マキノと福井県境の山並みと続く>
その値には誤差があるでしょう。しかし
被害面積2万3千ヘクタールとか、推定収量12万トンという数値より
80万人分のお米が取れるのと同等の農地が被害にあったという
表現の方が身体的な感覚としては良く理解できるのではないか、
と思うのですね。
石高表現復活したら食料問題ももっと身近になるように思いますが
如何でしょうか?
同等のことですが
例えば正岡子規が書いた「病床六尺」の六尺は1間、つまり畳の長手の長さで、
畳一枚に収まる病床の自分を表しています。昔の家に関する単位は
人間のサイズから基準が取り易く、空間理解もし易いです。
街道の距離を表す「里」も歩く時間から平坦な場所や険しい場所によって
1里の距離数が違っていたとの事です。歩いて移動する距離ですから
道路事情が悪かったり、険しかったりすると思うように進めません。
長旅で地理的に不慣れな所でも、時間辺りに進む距離数が近似値だったら
日が暮れるまでに着けるかどうか目測を誤ることも軽減される
とても身体的な単位だったと思います。
<古代のハイウェイ 日本海から近江へ塩がもたらされた道>
科学が人間の幸せに必ずしも結びつかない事故にも
関連して思う事を書いてみました。
以前書いた石の話
==> 「podcast 51 鮒寿司の五大要素の一つ、お米の話から」
<外部リンク>
asahi.com 津波で浸水被害を受けた田畑
明治以前の国内における人口の推移
ご飯一杯の重さ
単位 合
単位 里
単位 石
農水省 「平成22年産水陸稲の収穫量」について