浅井郡とメコン川流域との接点、、、、
2010年12月23日
私が暮らしている地域、滋賀県湖北地方。
以前は何気なく往来していましたが、注意深く湖北三郡の
伊香郡、浅井郡、坂田郡の地域性の違いを気にしながら
道路を走ったり、地図をみたりするようになると
ハハ〜ン!と分かったような気分になる事があります(^^♪
(別に地理的な発見があった訳ではないのですが)
<滋賀県北部の地形>
滋賀県北部の地形地図ですが、
ここに延喜式神名帳で定められた神社の位置にピンを打ってみました。
延喜式神名帳とは927年に定められた全国の神社の一覧で、
延喜式内社、または単に式内社、式社と言われている、
一種のブランドですね。
その選定には当時の政権の政治色が強く反映されている、
と言われてもいますが、ある意味千年前のタイムカプセル
みたいなもんだなぁと思うんですね。
<滋賀県北部の地形と湖北の延喜式内神社>
延喜式で定められた神社、近江国は155座となっています。
ちなみに、
1位 大和国 286座
2位 伊賀国 253座
3位 出雲国 187座
4位 近江国 155座
5位 丹波国 131座
6位 越前国 126座
7位 山城国 122座
8位 尾張国 121座
9位 河内国 113座
10位 陸奥国 100座
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と、近江国は延喜式で定められた神社が多いのですね。その近江国の中では
1位 伊香郡 46座(黄色いピン)
2位 高島郡 34座
3位 浅井郡 14座(赤いピン)
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9位 坂田郡 5座 (青いピン)
10位 愛智郡 3座
11位 神崎郡 2座
伊香郡、浅井郡ともに神社の数が比較的多いです。
逆に坂田郡は下位から3番目と少ないです。
<滋賀県北部の衛星写真と湖北の延喜式内神社>
衛星写真にしてみました。これは現在の開発された後の写真ですが
山や森の中にあるのか、田園の中にあるのかがよくわかります。
(千年前は田園でなく原野だったかもしれませんが)
いずれにしても、黄色いピンの伊香郡の神社の多さが目立ちます。
千年前の政権に近い地域だったのでしょうか?
それと、やはり伊香郡の神さんは平地にも神社が分布していますが
山との関係が深い様に思います。随分山深くまで分布しています。
<賤ヶ岳から伊吹山方面>
賤ヶ岳の麓にある伊香具神社の鳥居の形は、
昔この辺りが湿地であったのを表しているのではないか?
と言われています。
浅井郡は竹生島を軸に領域が広がっているとの考え方がありますが
琵琶湖岸から東側の山の麓まで均等に神社の分布が広がっています。
その殆どが田園集落にある神社です。
<葛篭尾崎から伊吹山方面>
坂田郡は天皇家とは極めて近い関係にある息長氏の本拠地ですが、
意外と延喜式に記載されている神社は少ないです。
これが定められた900年代は既に息長氏の影響力は
無かったか、逆に敢えて無視されるような存在だったのでしょうか?
それと坂田郡内は2〜300m級の里山が散在していますが
北隣の浅井郡とは若干風土が違うように思います。
それから、
今の長浜市街地に全く延喜式内の神社が無いのが面白いです。
千年前の長浜市街地はどのような場所だったのでしょうか?
神社を起点に物を考えてきましたが、
神社がそこにあったという事は、その近くに人の営みもあったでしょうし
人々の暮らし方は、その地域の地形に影響されてもいたでしょう。
ざくっとしたジャンル分けですが、
伊香郡 = 山岳地域に適した生活
浅井郡 = 農耕を主にした生活
坂田郡 = 農業と里山を組み合わせた生活
というような事が特徴付けられる様に思います。
ああ、そういえば伊香郡域と、坂田郡域では
大きな木そのものを神域として祭る野神信仰があるようです。
山や森に親しい宗教だと思いますが、浅井郡域では
馴染みが無いように思います。逆に山の宗教とは
別の影響を受けていた地域柄だと思います。
<旧伊香郡 高月町柏原の欅>
900年代に規定された神社と地形からだけの推論ですが、
浅井郡の稲作に適していた地域の特徴が千年前に既に
出ていたではないかなぁと思うのですね。
しかも神社の数の多さからして当時の政権とは何らかの形で
友好な関係にあった地域ではないでしょうか?
もしくは、一目置く神さん、またはその神さんに関連する
氏族がいたのかもしれない地域だったのかなぁと思います。
とは言いつつも、では具体的に何氏とか何族とか
人に繋がる痕跡が残っていないので謎なんですが、、、、。
この辺りの話はまだまだ不勉強ですので
曖昧な事が多すぎますが、
山に住む民と、淡水漁業と農耕を行う民の
宗教的な特徴の違いはある様に思いますね。
妄想話の域を出ませんが、琵琶湖と稲作地帯と言えば、、、、、、、、
もちろん鮒寿司との関わりも、、と妄想が広がります。
東南アジアメコン川流域の農耕儀礼と
浅井郡(浅井町)の農耕儀礼との類似性を
研究されている方がおられますが、この地域には
古墳時代よりも以前に、東南アジアから稲作と
淡水魚業、それにナレズシの製造技術を携えた
人々が定住していたという仮説はエキサイティングですね。